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ドビュッシー 前奏曲集

を貫いているからです。すべては壊れやすく、過ぎ去るものであり、私たちも、こ

の世の美しさの束の間の証人でしかないのです。

このような認識は、ドビュッシーの音楽語法に何を生み出していると思わ

れますか。

P.B.

 ドビュッシーの音楽的な「時間」についての探求の鍵となっていると思いま

す。彼になぜ自由が必要だったか、どんな方法で音楽規範を破ったのか、調性

体系の規則を解放したのか。とは言うものの、彼は調性を頭から投げ出したので

はありません。ドビュッシーの書法は、過ぎ行く時に対する位置づけを表現する

手段だと言えます。伝統的な調性体系(和声規定とそれが形式にもたらす波及

効果のことですが)には、年代的な目印や聴く人にとって「心地よい」指標があっ

て、根を張った感覚や、何かをつかんでいるような感覚が得られますが、ドビュッ

シーの音楽では、これらを完全に失って、人間は、何もできないまま過ぎ去って

ゆく時の中で生きるという条件に直面することになるのです。人間は時間を通り

過ぎるだけの存在になり、無限の中での小さな「挿話」でしかなくなるのです。私

はドビュッシーに、「束の間」という感覚をだんだん強く持つようになっています。

『前奏曲集』をどのように捉えられますか。第一集と第二集の関係についてう

思われますか(

1

)。

P.B.

 ふたつの曲集のあいだには大きな違いがあるものの、私にとっては集大

成というべきものです。そこにある違いは、『映像』の第二集が、音の完全な自由

さの追求や並外れた音色の独創性において、第一集よりもずっと先に進んでい

るという違いと同じです。『子供の領分』で一息ついた後、ドビュッシーは『前奏曲