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ジョフロワ・クトー / メス国立管弦楽団 25 1854年2月、シューマンが自殺未遂を起こす。ヨアヒムによれば、心に大きな打撃を受け たブラームスは、そのまま同年夏に《2台のピアノのためのソナタ》――すでにニ短調だっ た――の作曲に取りかかった。つづいてブラームスは、その第1楽章のオーケストレーショ ンを試みている。さらに彼は、近しい仲にあったシューマン夫人クララ、ヨアヒム、作曲家ユ リウス·グリムから助言を得ながら、このソナタを協奏曲に書き換えていった。シューマンを 襲った悲劇が頭から離れなかったブラームスは、フィナーレに葬送行進曲を置く計画を一 時期あたためていたが、その草稿は結局、のちに《ドイツ·レクイエム》第2曲の素材として用 いられることになる。 1855年、彼は“昨晩、夢を見ました。あの行き詰まった交響曲をピアノ協奏 曲に書き直して、自演していたのです”とクララに書いているが、結局この作 品はしばらく脇に置かれた。のちの1856年7月29日にシューマンが他界す ると、ブラームスは心の師にオマージュを捧げるべく、この作品と再び向き合 うことになる。彼はクララにこう知らせている。“ここ数日、あなたの穏やかな 肖像画を描いています。これをアダージョ楽章にするつもりです。”とはいえ、 この第2楽章の素材となった穏やかな肖像画は、亡きロベルトに捧げる哀歌 のごとく響く……。
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