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36 このハ長調のソナタにも関わることですが、シューベルトの音楽を語る上では、未完の概 念も避けて通れません。今回あなたは、エルンスト・クルシェネクによる補筆完成版を演 奏していません。シューベルトの作曲の筆が止まったことを、どのように解釈しています か? シューベルトの音楽において、未完成は“力が及ばなかった”ことを意味しているわけではあ りません。それはすなわち、意図された未完成です。彼は、言うべき重要なことはすべて言 い終えて、すでに目下の苦しみをさらけ出してしまったのです。私はそのような視点から、第 2楽章〈アンダンテ〉のマルテラートのオクターヴを解釈しています。幾度かの晴れやかなひ とときを経て、見かけは天真爛漫な幼年時代をめまぐるしく回顧した後に、再び同じオクタ ーヴが音空間を満たします。 変ロ長調のソナタは、いわば帰結であり、そこで一つの人生が終わりを迎えます。その主題 の素材の一部は、シューベルトの有名なリート《さすらい人》(D489/493)――原詩は時 に“不幸な男Der Unglückliche”と題されています)――から取られています。このリート は、ぞっとするような言葉で、失われた楽園について語ります。“その地では僕の薔薇が咲き ほこり/友人たちが歩きまわり/亡き友人たちが起き上がる”“ここの陽は冷たく/(…)僕 は方方でよそ者になる”のだと。第1楽章のパッセージのいくつかは、19世紀のあらゆる音 楽の極致をなしています。第2楽章〈アンダンテ・ソステヌート〉の最後のハ長調の転調とと もに“さすらい人”が穏やかに死を受け入れるとき、すべてが霊妙な雰囲気に浸ります。これ が静止の感覚、永遠の感覚を呼び起こします。そのとき私は、一連のフレーズを映像へと置 換します――それらは小津安二郎監督の世界や、ロベール・ブレッソン監督の『バルタザー ルどこへ行くAu hasard Balthazar』のいくつかのシークエンスと通じています。ご存知の とおり、私は映画をこよなく愛する者です!この長編映画『バルタザール~』は、私にはシュ ーベルトの人生のシノプシスのように感じられます。 シューベルト / D.840 & D.960

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