昨今の演奏家たちは、自分自身の美しさを過度に見つめて過剰に動き回る。アル ペッジョは立派に奏でられているだろうか? 彼らは、聞き手が漏れなくそれに気 づくことを望んでいる。和音は、とりわけフォトジェニックに(写真写りよく)響いて いるだろうか? 彼らは「その光景を味わう」ための一瞬のセルフィー・ブレイク( 自撮り休憩)を自身にゆるす。これらは、イザイ四重奏団の演奏中には起こりえな い。彼らはブレンデルの側にいるのだ。ブランド物の眼鏡の代わりにガラス瓶のよ うな眼鏡をかけたブレンデルは、ベートーヴェンを奏でる時、虎を手なずけながら 芸をするサーカス団員の助けは借りず、この音楽を——それだけでは物足りない と主張して——「時流に乗せる」べく、ダチョウの羽根をまとってフラフープをする 綱渡り師の助けを借りることもない。イザイ四重奏団は付加や装飾を排して、人間 の精神が到達した極致の一つに迫る。そのような企ては、エレガンスから逸脱する ことを意味する。 なぜならベートーヴェンの作品において、律動は音楽の一部であるからだ。律動 は、コンフォート・ゾーン(快適な領域)の欠如や、厳格な枠組みを強いる。そのな かで生まれる音楽は、個人的な溜め息や、「神がかった」ラレンタンドや、大げさな 感情の吐露による安易な陶酔とは無関係に客観的に発展していく。 63 イザイ弦楽四重奏団
RkJQdWJsaXNoZXIy OTAwOTQx