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33 ターリヒ四重奏団 作曲家アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)の存在が初めて国外に知らしめられたと き、彼のキャリアは一夜にして一変した。 ドヴォルザークの国際舞台での大躍進に決定的な役割を果たしたのが、《モラヴィア二重唱 曲集》だ。この曲集に目を留めたヨハネス・ブラームス(1833-1897)の推薦を受け、出版者 フリッツ・ジムロック(1837-1901)が出版を決めたのが、そもそものきっかけである。その 後すぐさま、ジムロックは、類似の曲集を新たに作曲するようドヴォルザークに依頼した。そ うして誕生したのが《スラヴ舞曲集》である。あとは音楽批評家たちと音楽愛好家たちの反 応を待ちさえすればよかった——ベルリンでは《モラヴィア二重唱曲集》・《スラヴ舞曲集》い ずれの出版譜も売り切れ、ジムロックは増刷の対応に追われた。このとき異国の聴衆に扉を 開いたのは、ドイツ語に訳された詞を伴う《モラヴィア二重唱曲集》の出版譜である。しかし ながら、当初この二重唱曲集の作曲は、チェコ語、そしてモラヴィアの豪商ヤン・ネフ(18321905)の家庭と密に結びついていた。もともとネフは、自宅での演奏を目的に、ドヴォルザー クに作曲を依頼した。既存の民謡に重唱用のパートとピアノ伴奏を付けるようネフから頼ま れたドヴォルザークは、この案を飛躍させ、モラヴィア民謡の詞に独自の音楽を付けた。ドヴ ォルザークは、簡明な民謡の精神に則って自らの音楽的創意を凝らしつつ、モダンな筆致 を巧みに絡めてもいる。そうして生まれた作品は、一見すると相容れないもの——簡素と洗 練——を同居させている。《モラヴィア二重唱曲集》の出版から間もなくして、あるベルリン の新聞に、著名な音楽批評家ルイス・エーレルト(1825-1884)による重要な評が掲載され た。エーレルトは、目を通したばかりの《モラヴィア二重唱曲集》が引き起こした感情のたかぶ りを、包み隠さず伝えている:「楽譜を読み進める私の心は、無上の喜びに満たされた——ま だ煌めく露に覆われた花咲ける枝々から、愛らしい乙女たちが飛び出してくるのを目にした者 のように。」きわめて詳細で、何よりも賛辞に満ちたこのレヴューは、やがて——執筆者本人 がのちに述べた言葉によれば——あまたの人びとを「店に殺到」させることになる。ドヴォル ザークは、この大ヒットを機に瞬時に引く手あまたの作曲家となった。

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